四季を短歌の重要な主題としたのは平安時代だが、江戸時代は季語によって季節を示す手法を重視した。それが組織化されると、いわゆる「歳時記」が作られる。短歌では「春すぎて夏来にけらし…」ということができる。春すぎて秋や冬の来ることはないから、念の入った話だが、そ

admin2022-07-15  11

问题     四季を短歌の重要な主題としたのは平安時代だが、江戸時代は季語によって季節を示す手法を重視した。それが組織化されると、いわゆる「歳時記」が作られる。短歌では「春すぎて夏来にけらし…」ということができる。春すぎて秋や冬の来ることはないから、念の入った話だが、それだけで一二音節、しかしその後にまだ一九音節がある。俳句では残りが(________)しかない。そういうあたりまえの事をいうのに一二音節を費やすことは不可能だろう。季語を用いれば夏といわずして(________)を示すことさえもできる。もちろん「夏草」といい、「秋の暮」ということもあるが、「蝉」や「ひぐらし」の語があれば、夏や秋を用いるには及ばない。季語は短詩型の表現の経済のために有力な道具である。
    芭蕉はまた一瞬の感覚を捉えるために、擬声語や畳語を利用し、言葉の超現実主義的な組み合せにまで到った。たとえば、ほろほろと山吹散るか滝の音あかあかと日はつれなくも秋の風閑さや岩にしみ入る蝉の声そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、「今=ここ」に、全世界が集約される。________)はそこまで行った。俳人の誰もがそこまで行ったのではない。しかし誰もが「今=ここ」の印象に注意し、その時までのいきさつからは離れ、その後の成り行きも気にかけず、現在において自己完結的な印象の意味を、見定めようとしたのである。俳句は日本語の抒情詩の形式が歴史的に発展した最後の帰結である。今ではおそらく数十万の人々が俳句でその「心」を表現しようとしている。く________)数百万の発行部数をもつ大新聞にも読者の俳句の欄がある。そのことの背景は、おそらく彼らが、少なくともその心情の一面において、現在の瞬間にく生きているということであろう。
    抒情詩の形式、殊に連歌の形式に対応する散文の文学の形式は、日本語で「随筆」とよばれるものである。随筆に相当する西洋語はない。事実上それに似た文章はあり得るが、少なくとも文学的散文の主要な範疇の一つとはみなされていない。しかるに日本では『枕草子』以来『徒然草』や『玉勝間』を通って今日に到るまで随筆として総括され得る文章が、散文の文学の主要な形式の一つというよりも、ほとんど最も重要な形式であった。著作家たちはそこでもっとも多くを語ったのである。日本文学に固有の独特の形式、その長い歴史と圧倒的な大衆性という点で、連歌と随筆は似ている。ちがうのは、一方が共同制作の定型詩で、他方が単数の作者の散文である、ということにすぎない。
    連歌の著しい特徴、すなわちその全体は成り行きに任せて成り、明瞭な構造をもたず、あたえられた時点での付句に全体の流れからは独立した工夫や面白味があるという傾向は、全くそのまま随筆の特徴でもある。『枕草子』も『徒然草』も『玉勝間』も、相互に共通の主題をもたない断片の寄せ集めで、全体を通しての話の筋はなく、特定の一つの考えの発展はなく、要するに建築的な構造は全くない。また断片の配列に、たとえば年代順のような何らかの秩序があるわけでもない。その長さも不定で、数行のものもあれば、数ベージに及ぶものもある。一貫しているのはおそらく、同じ一人の作者の文体にすぎない。何が面白いのか。あきらかに全体ではなく、部分である。各部分=断片が、前後との関係なく、それ自身として、それだけで、それなりに、面白いのである。作者の機智や感受性やものの考え方、風俗の鋭い観察、歴史的な事実や文献の紹介、書評、人物評、噂話、神話の細部、政治についての意見、酒や食べものの味、語彙と意味論、……列挙すれば際限がない。全体ではなく部分への興味に集中した文学形式が随筆である。随筆の各断片は、連歌の付句のようなものである。時間の軸に沿っていえば、読み終った断片や、来るべき断片とは関係なく、今、目前の断片が、それ自身として面白ければ面白い。抒情詩の形式における(________)集中への志向は、散文においても、もっとも典型的には随筆において、全く同じように確認されるのである。
    人間は言語表現と音楽に対し脳の別の部分で反応するらしい。脳の左側の言語中枢の障害により言語機能が全く失われても、音楽的能力には何らの影響もないことがある。逆に右脳皮質の相当部分に障害があれば、音楽のリズムや旋律の評価が乱されることがある。しかし同じ文化圏のなかでは、言語表現も音楽もその文化の強い影響を受ける。日本で連歌がその全体の流れにではなく、各瞬間の局面に注意を集中するとすれば、その傾向は、日本の伝統的音楽をも特徴づけていた。少なくとも西洋近代の音楽とくらべれば、日本の音楽は、音楽的持続の全体の構造よりも、それぞれの瞬間の音色や「間」を重視する。抒情詩が短詩型へ向かったように、浄瑠璃の劇場音楽は、くり返される比較的短いいくつかの型の曲に還元され、それぞれの曲はそのなかでの瞬間の音の質に還元される。一息に吹きこむ鋭く長い笛の音は死者の魂を舞台に引きだすのであり、太棹の撥の冴えは道行の男女が生きる「永遠の今」を現前させる。それが「聞きどころ」である。
    江戸時代に普及し、洗錬された日本の音楽の大部分は、歌唱や語りの伴奏や踊りのための音楽で、およそ同時代の西洋音楽のような純粋の器楽は少ない。尺八の独奏曲は例外である。
    旋律は多声的でなく、単線的である。声楽でも器楽でも、フーガのような建築的構造をもつことはない。また旋律を和音が支え、主題の提示とその変奏およびくり返しから成るソナタのような緻密な構成が展開することもない。その代りにそれぞれの音の「音色」に注意が集中される。音色は多くの倍音を含んで複雑となり、微妙なヴィブラートを加え、万感をそこにこめる。極端な場合には、遠寺の鐘声の長く引くディミヌエンドを一曲として聴くこともできるだろう。
    (加藤周一『日本文化における時間と空間』による。設問の関係上、本文を改めたところがある)
「能」とあるが、能を大成させた世阿弥が記した能の理論書はどれか。

选项 A、花月草紙
B、発心集
C、風姿花伝
D、水鏡

答案C

解析 世阿弥所著的能剧理论书是『風姿花伝』,故选项C正确。
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